2010.07.13 *Tue
眼鏡それ自体ではなく、眼鏡を掛けているからこそ良いのである。
そういえば、ジェームズ・キャメロン監督の『アバター』が公開されてから、やたらと3Dが注目を浴びるようになった気がする。
CMで見る限り登場人物たちはあまり見目麗しいと思えず、私は結局見に行っていない。
もうちょっと主人公たちの造形が美しかったら行ったんだけどな。
そして私の周囲では、あまり評判が宜しくなかったのも事実だ。
「観に行った?」
「うん、行ったよー」
「どうだった?」
「……まあ、いいんじゃない?」
こんな具合である。だからボンビーな私は、レディースデイであったとしても1000円払って観に行こうとは思わなかったのである。
なにやら一時期、「『アバター』を見た人が自殺する」という噂があり、報道も一部でされたようだが、正直に言って日本人は自殺しないんじゃないかな、という結論に至った記憶がある。
様々な観客に感想を聞いた結果、欧米系は「現代社会の自然のなさに絶望した」と語り、日本人は「面白かった!凄かった!」と語っていた。
うーん、やっぱりこれは文化の違いだろうか。
キアヌ・リーブス主演の「マトリックス」でも、彼は中国や日本の文献を読んで研究したとインタビューに答えていた。
あの内容を感覚ではなく、研究で理解しようというところが、欧米とアジアの違いなんだろうか。
それらを踏まえて考えれば、「アバター」はその臨場感溢れる壮大な自然を描き出していたため、一部の人に対しては自殺したいという願望を抱かせるほど衝撃的だったのだろう。
3Dは「アバター」で一躍人気に火がついたが、それ以前からもあるにはあった。
だからなんで「アバター」があそこまで3Dで持て囃されたのか分からない。
見ていないから仕方ないとう部分もあるだろうが、そこはこれからもあまり見る気は起こっていないのだから仕方がない。
あれを見るくらいなら私は「誰が為に鐘が鳴る」を見たいぞ。
「昼下がりの情事」でもいい。今私は純愛に飢えている。
そう、話を元に戻すと、3Dは確かにあったのだ。
私が最初に記憶しているのは十数年も前の話だ。
京都にある太秦映画村で、3D技術を使ったアトラクションがあった。
映像は、忍者が江戸で活躍するもので、観客である私たちは忍者になる。
私たちは忍者の視点で映画を見ながら、上下左右に運動する椅子に座ったまま、忍者の動きを体感するのだ。
今ではもう内容は異なったものになっているようだが、懐かしいな。
私は忍者体験バージョンのが一番好きだった。
切にリバイバルを希望したい。
そして3D技術が様々な場面で使われるようになり、つい先日のハリウッド映画で広く注目を集めるようになり、そして家庭テレビにもその技術が応用されるようになったのだ。
一体なんのためにだ。わからん。
つい先日、3D技術を使ったテレビや、最先端の家電製品を紹介する某大手メーカーの展示場に行く機会があった。
ただ単に暇だったとも言う。
一歩足を踏み入れたらそこは異次元だ。
なんだここ――!
そう思うに違いない。
エコを全面に押し出したアピールがなされた店内は、白と緑を基調としたシンプルな造りだ。
――掃除しなかったら凄く貧相になるんだろうな。
などと嫌味なことを思う小姑になりかわった私は、ぐるぐると店内を徘徊した。
へえ、壁全体が映像になるのね。
SF小説みたーい。
一角では、映像の種類、例えばスポーツや映画によってくるくる照明の色が変わるスペースがあり、テレビに合わせた室内装飾の紹介をしている。
その一方では、壁に自分の姿が映り、そこで手を伸ばしたら壁に文字が表示され、手を動かして画面を操作し……という、何とも画期的なスクリーンが紹介されていた。
使用用途はあまりはっきりしないが、ヨガの練習をしたい場合に、ヨガの映像を実寸大で流しながら自分はその真似をする、というときに使えるらしい。
鏡に自分の姿も映るから、そっくり模倣できる、と。
なるほど。だがビリーズブートザキャンプはちょっと難しいだろうなと思った。
日本の住宅事情的に。
結構切実な問題じゃなかろうか、そこは。
そしてとうとう来ました、3Dのテレビの展示スペース。
私は眼鏡を掛けて画面を見た。
ふおお、遼くんだー。なんだっけ、はにかみ王子って言われてたんだっけ。
王子ってなんだよ、って当時は突っ込んだものだった。
いかんいかん、思考が逸れた。
うおっ、砂と一緒にボールが画面の外に飛び出してきたように見えるよー。
飛び出してきたーっ!と素直に感動できないところが辛い。
もうちょっと純真無垢な心を持っていたら、素直に感動できたのかな。
わーい凄いよおかあさん、って。まぁ私はこの展示場に1人で来たわけだけど。虚しいな。
独身女一人、家電展示場にいるの図。
べ、別に家庭を持ったときに何を買おうかなぁとか、そんな妄想してるわけじゃないんだからねっ!
たまたま通りかかったから……っ!
って、言い訳してる感じが虚しいわ。
何を一人でわたわたしてるのかしら。
今の私を見たって誰も何とも思わないのは分かってる。
私は感傷的になりながら眼鏡を台座に置いた。
ステレオタイプというのは厄介だ。
黒いスーツに黒い鞄、黒いパンプスという井出達で町を歩けば、大抵就職活動中だと思うらしい――それが真実であろうとなかろうと。
私は風に髪を靡かせながら家路に着いた。
3Dテレビを買ったとして、買った人はどうするんだろう。
毎回テレビを見るたびに、眼鏡をかけるんだろうか。
それとも3Dテレビを買った人の目は、これまでも地球上の生物が生き残りを掛けて変化していったように、3Dテレビ対応の目に変化するんだろうか。
特別なゴツい眼鏡をかけないと、どうしてもぶれて見えるはずの映像が、美しく見えるような目に。
それってただ乱視が進行してるだけ、とかそういう問題にはならないんだろうか。
第一、3D映像を見るためには眼鏡をかけなきゃいけないというのが私には受け容れがたい。
眼鏡を掛けている人は快適に3D映像を見られないじゃないか。
眼鏡の上に眼鏡をかけるという行為の気色悪さは、やったことがなければ分からない。
うがーっ!と叫びたくなる程度にイラつくのだ。
だって鼻重たいし、何となく視界は狭くなって曇るし、良いことがない。
となれば眼鏡を外さなければ、3Dテレビは快適に見れないということになる。
視力が悪い人間にとっては致命的では無いか。
ならばコンタクトをつければいいじゃないか。
そういわれる気もする。
パンがなければケーキを食べればいいじゃない。
そういったアントワネットではないフランス貴婦人のように。
だがコンタクトも問題がある。
つけるのが面倒だ。外すのも面倒だ。つけた時に、若干眼球が重くなるのもいやだ。
折角、家で寛ぐ体勢になっているというのに、なぜコンタクトをつけて臨戦体勢にならねばならぬ。
あぁ、このままでは視力の悪い人間は3Dテレビを永遠に見られないことになってしまう――!
それにしても、3Dテレビを見る時は皆眼鏡をかけなくてはならないのか。
家族分眼鏡がなかったら取り合いだな。
「お兄ちゃん、あたしが見るのーっ!」
「ずるいぞ、お前ばっかり! さっきまでずっと見てただろ、俺の番だ!」
「うえーん、お兄ちゃんが取ったぁああ!」
目に浮かぶようだ。
チャンネルの取り合いが、いつしか眼鏡の奪い合いになるのだな。
チャンネルよりも華奢なつくりの部分が多いだろうから、直ぐに壊れるのは目に見えている。
烈火の如く怒るのは、いつの時代も父親ではなく母親だ。これもステレオタイプだ。もちろん。
「あんたたち、いい加減にしなさい!罰として一ヶ月、3Dテレビは見ちゃいけません!」
これなら普通のテレビは見てもいいことになる。今度はチャンネルの覇権争い勃発だ。
だがこれは親が死守すればいいだけの話だ。比較的簡単である。
それとか、テレビを見ているときに宅配便が来たとしよう。
「あ、宅配便だわ。取ってこなくちゃ」
そういって印鑑を片手に玄関へ。がちゃりと開けた扉の外で、一瞬固まる気配。
「ここにハンコ、お願いしまーす」
そう言った宅配便のお兄さんは、宅配物を置いて去っていく。
私の顔には無骨な眼鏡。
きっとすぐに、「あぁこいつ、休日に1人寂しく3Dテレビ見てやがったな」とバレるに違いない。
「そりゃそうだ、こんなヤツに彼氏なんているわけがないんだ」と。
うきー、想像するだけで腹が立ってきた。
なんで3Dの眼鏡はあんなに無骨なのよ。ごつごつしてるのよ。
もっと洗練されたおしゃれで華奢な造りの眼鏡はないの!?
それよりもなぜ3Dを見るためには眼鏡が必要なの。
眼鏡がなくても立体的に見えなきゃ3Dじゃないわ!
私は3D映像の開発に携わっているわけでもなければ、理系出身でもないので好き勝手を言える。
こんなことを公然と言う消費者ばかりが相手では、商売上がったりである。
ただ私は、次々と進化し世に出回る電化製品についていくには、世間の情報に疎く、そしてボンビーなのだ。
いつの時代もボンビーは辛い。
そういや昨日は参議院選挙だったな。
結果も大々的に報じられたことだし、ちゃんと投票に行き、堕落はしているものの社会人としての義務を果たした私としては、早々に暮らし向きが楽になればいいと思う。
そして、明後日くらいにリフォーム業者が来て、家の中を改装し、テレビの内容によって色が変わる照明や、壁なのに映像が映り、映像を操作できる部屋や、大きな3Dテレビを設置する――なんてことが起こればいいのに。
夢見物語は思っているくらいが丁度良い。




